二十七歳の地図

日記・詩・小説をつらつらと書き綴っています

【酩酊日記】2015 9/18

ときどき目に映るモノすべてが醜くこちらを威嚇してるかのように見える

建物や草木、道路や乗り物などすべてが畏怖の対象となることがある

恐怖を抱えつつ生きるというのはたいへん難儀なことだ

 

俺には常に自殺の勧誘がやってくる

俺がいなくなると悲しむ人間も何人かいるだろう

彼ら/彼女らが悲しむという事実が、また俺を縛り付ける

どうしたらもっと自由にスカッと生きていけるだろうか

他人に無関心なサイコパスになるしかないのだろうか

現実の生活は容赦なく続いていく

ちっとも待ってはくれないのだから考えてる暇なんかありゃしない

 

みなさん、明日はどこでなにをするのでしょうか

漠然と続いていく日々、日常、たまの非日常

恋愛、仕事、愚痴、アルコール、音楽、自己表現

ほんとうは背広を着て通勤するサラリーマンに少し憧れていた

どうしてああいうことが出来るのだろう?

どうして俺は出来ないのだろう?と

会社勤めも出来ない人間はいまでは精神病者と見なされ、クスリで治療される

SSRIなんて本当に深い絶望の淵にいる人間にはまったくの無意味だ

 

この一度きりの人生を自分のものにすべく、俺は考えて決断し行動してきた

だけど、どうもうまくいかなった

なにが悪いというわけでもないけれど(しいて言えば運と努力と才能の欠如)、先程も述べた世界への漠然とした恐怖が次第に湧き上がり、いまではすっかり脳の定位置を占めている

外に出るのがほんとうに怖くてたまらない

玄関のドアを開けようとしてもうまく動けなくて、しばらくして堰を切ったように部屋を飛び出す

人間がそこら中にいること

効率性のために発展した街並み

人間とは無関係に回転し続ける恒星や惑星を眺めていると、このちっぽけな太陽系のちっぽけな地球という惑星に知的生命体が生まれ、徐々に進化し、自分という個体が生まれたことがなにかの間違いのように思える

 

「生き方」というものは事前に計画するものではなく、事後的に後付けで整理されるものだ

「死者」というものも死んだ後に、残った者たちがその人の人生を総括し定義される

俺は昔から「自殺」という行為の引力に魅せられてきた

死語の世界はあるのだろうか?

それとも無だろうか?

世界があればその世界を知ろうとするだろうし、無であれば無なんだから終了

だから特に問題はない

ソクラテスが毒杯を仰ぐとき、そういったことを語ったと伝えられている

死が怖くない=自殺したい、ということでは必ずしもありません

ただ、死というものが選択肢として頭から常に引き出せる状態で格納されている

 

日本は死者の国です

天災、戦争、自殺、死んでいった者たちの思いがいつも俺の胸には響いてきます

目の前にいる人間や同じ時を生きている人間たちについてはやたら考えるけれど、死んでいた者やこれから生まれてくる者について、俺たちはあまりにもなにも考えてない気がする

過去と未来への視線が鈍いのは、高度消費社会になりモノが溢れお金とサービスの交換に忙しいからだと思う

 

比較的自由度が増した現代社会でさえ、俺はあるがままには生きられなかった

せっかく生きるのであれば自分の思いに素直に、ときには自分を律して行動する

欲望のままに行動することとはまったく違う

このあたりはカントとか読んでくれ

 

社会に構成員として役割を果たし、報酬として貨幣を受け取る

その貨幣であらゆるサービスと交換する

貨幣とは交換が発生するときに必然的に生まれるものだ

文明人なら貨幣制度を回避することはできないのかもしれない

物々交換の時代まで戻ろう、と主張する方もいるが、ここまで高度化した社会でいまさらそれは難しいと思う

ただの物好きな連中の趣味的サークル活動として認識されるのがオチだろう

 

※クスリでうまく頭が働きませーん。。

 

夢なんて誰も抱いてやしないし、愛について真剣に考えることも可笑しく思われてしまう

現代人は唯物主義者が多く、カネでそれなりに楽しいことやって美味いもん食べてたまに旅行とか行けたらまあいいじゃんと、誰が決めたわけでもない”それなりに良い生活”とやらにまたもや縛られているように思う

 

自分で全部考えるのはしんどいから、思考をアウトソースするのが昨今の流行りだろう

俺はその風潮にも相容れない、だからしんどい

だけど全部自分で考えたら頭がパンクする

ネット社会で歴史の年号を暗記する必要などない、ググれば一発でわかるから

この主張も定期的に見るけど、自分の脳のメモリーに蓄積した知とググッて目にしたただの情報とでは雲泥の差がある

後者はテストでは正解できても、その情報をもとにした発展的な創作や知の向上が期待ていない

ほんとうにジャストこのテスト限定のものでしかなくなる

教養というものは世界を捉えるために必要な道具だ

不幸になるかもしれないけど世界を知りたいという者だけに与えられた特権だ

 

まあ俺は幼少期からずいぶん悪いこともやったし、罪はたくさん抱えている

どうしたらこの罪を償うことができるだろう

キリストみたいに誰かが引き受けてくれるのか?

そんなことあるわけがない

やはり自分自身で決着をつけなくては

どういうやり方をするかは個人の自由だ

なんらかの活動をしたり、ひたすら作品を作ったり、ときには死で浄化しようとする者もいるだろう

 

たまに自分で思うけど、俺はクリスチャンっぽいと思うのよね

長崎はキリスト教徒の割合が比較的多くて、周りにもたくさんいた

教会のミサに参加したりする友人を見ていつも羨ましく思っていた

 

人間は多様な人格をもっているので、その人がなぜそんなことをしているのか?については徹底的に追求しなければならない

人間の本質は続けていることの中にある

 

さて、俺はこれからどこへ向かうだろう

ほんとうに死ぬことになるかもしれない

なんらかの創作活動をやるかもしれない

金をしこたま稼いで海外放浪生活かもしれない

だけど精神活動に軸をおいて社会を切断し届く人にだけ届ける、こういうことがしたい

もう少しだけ長生きできるように祈ろう

せめて26歳までは生きなければ!