二十七歳の地図

日記・詩・小説をつらつらと書き綴っています

【小説】奈之浜diary

 

 

 夏の終わりの奈之浜海水浴場は独特の雰囲気に満ちていた。日中あらゆるものを照らしていた赤い陽がようやく沈み、奇妙なほどの静粛に閉ざされた海を見ていると、こうすけの胸には穏やかな気分と不安な気分とが同居していた。

 こうすけは陽が沈んでからの時間に海を眺めに来るのが好きだった。自身に”好き”という認識があったかは定かではないが、ほぼ毎日の習慣として今日も家から徒歩数分の奈之浜に来ていた。

 日中と違い、海中は果てしない闇の世界のように思える。魚や藻類の姿も見えず、この闇の世界に生き物が生息しているとはとても思えなかった。

 こうすけはジーパンの左ポケットをまさぐり、ポータブル音楽プレーヤーを取り出した。慣れた手つきで操作しイヤフォンを両耳にかけた。

 流れてきたのは少し悲しい恋の歌だった。こうすけのお気に入りのアーティストの代表曲だった。いつもはこの曲を聴くと感傷的な気分になったものだが、この日はなぜか爽快な気分だった。 

 

 ふと、後方から人の声が聞こえた気がした。こうすけは左耳のイヤフォンだけを外し、振り返ることなく片耳を澄ました。

「……おーい」

 それは女性の声だった。いまこの周辺には自分しかいない。つまり声の主はどうやらこうすけに呼びかけているようだった。

 こうすけには声の主が誰であるかだいたい予想できた。片耳にイヤフォンをかけたまま振り返りると、遠慮がちに右手をふりあげた。

 なつみがボーウィッシュな短髪をなびかせながら笑顔で駆け寄ってきた。わざわざ走る必要もないだろうに、とこうすけは思っていた。

「まーた海見てんの? 暗くてなんにも見えないでしょ?」

 なつみは軽快な動きでこうすけの隣に腰掛け、同じように漆黒の海を見つめた。

「お前んち、今日はカレーだろ?」

 なつみは一瞬だけ虚を突かれたような顔をしたが、すぐにいつもの笑顔に戻った。

「やっぱりカレーって匂いですぐわかるよね。今日の部活けっこうハードだったから妹の分も少しだけ分けてもらっちゃった」

 ソフトボール部に所属しているなつみは決して才能あふれる選手ではなかったが、練習メニューを全力でこなす姿や持ち前の天真爛漫な振る舞いによって監督やチームメイトの信頼も厚かった。

 一方、こうすけは部活には所属しておらず、ホームルームが終わるとそそくさと帰宅し、趣味の世界に没頭する日々だった。

 ロック調の曲を聴き終えると同時に、こうすけは右耳のイヤフォンも外して元のポケットにしまった。

「今日進路相談あっただろ。もう周りの連中はおおかた決めてるようだし、お前はどうすんだ?」

 こうすけからこういう類の話題を切り出し始めることは珍しかった。

 なつみとこうすけは幼稚園からの付き合いで、もう14年になる。互いの表情や会話のテンポ、抑揚などで感情の機微を感じ取ることは造作もなかった。このとき、なつみはこうすけの中に不安や葛藤のようなものを感じ取っていた。

「あー進路ねえ。わたしは正直あんまり深く考えてないんだよね。勉強して大学に行ってもいい気もするし、どこかの聞いたことない会社に就職してもいいし。あっ!保育士とかいいかもね~。どう? わたし向いてそうでしょ?」

 あまりにもあどけない眼差しを向けてきたので、こうすけは肩の力が抜けて心のなかで笑みをこぼした。

「お前が保育士ねえ。まあ向いてそうだけどほんとにやる気あんのか? 先生はやりたいことやりたいことってやたら言うけどさ、俺全然わからないんだよなあ。自分のことなのに考えても考えてもさっぱりわからない。普通みんな夢とかやりたいことってあるもんなのかな?」

 こうすけはなつみ相手にしかこういう話はしない。自分の漠然とした悩みや鬱屈をなつみには隠さずに伝えてきた。そしてなつみも懸命に応えてくれた。こうすけの心の中心には常になつみがいた。好きとか仲良くしたいとかそんなのとも違った感覚。付き合いが長くなると自然とそうなるものなのか、こうすけにはわからなかった。そしてなつみの本心も。

 「なによ~いつになくマジメじゃないの~。でもね、先生は純粋に生徒にはやりたい道に進んでほしいと思ってるだけだと思うわ。だから生徒の本心を引き出そうとするの。たまたま担任になったからって、たかだか出会って数ヶ月の人間のことなんてわかるはずないのにね」

 いつになくマジメに淡々と話すなつみの姿に、こうすけはいつもと違う様子を感じた。

 「あとね、やりたいことなんて考えるだけ無駄よ。そもそもやりたいことが無事見つかってその道に進めたとしてどうなるっていうの? うまくいけばいいけどうまくいかなかったら? そんなの、より惨めなだけだわ。なにかの目標に向かってひたすら突き進んでる人っているじゃない? あたしね、なんとなく苦手なの。ああいう人たち」

 終始うつむきながら、見えるはずもない海の底を懸命に見ようとしているかのように話し続けた。

「あたし、こうすけのことが好きよ。だっていつも悩んでる。不安でしかたないって顔してる。友だちとバカやってる時だってひとりだけ違う景色を見てる。ようは不器用でいまだに子どもみたいな奴。純粋なんてキレイな言葉は使わないよ。ただ、わたしはあなたにずっと惹かれてたわ」

 なつみの告白ともとれる言葉にも、こうすけはさほど驚かなかった。数分間の沈黙が場を支配したが、なつみはついに耐え切れなくなった。

「ちょっと! あんたもなにか言いなさいよ。変な感じになっちゃうじゃない!」

 なつみのつり目気味の瞳がこうすけの横顔を捉えた。

「う~ん……まあ俺とお前の仲だしさ、好きって言われてもちょっと意味が違うよなあ。まさか付き合ってくれってわけじゃないんだろ? じゃあ好きってなんなんだろう。でもたしかにお前と一緒にいると心地いいかも。昔からずっと」

「なーんだ、そんじゃあんたもわたしのこと好きってことじゃん」

「えっ! そうなるのか!? 」

 こうすけの過剰な反応に、なつみはこうすけの背中を軽くたたいておどけてみせた。

「ふふ、なんだかあたし達ってこの小さな街でいちばんのバカみたいじゃない? ちょうど頭もバカだしね!」

 二人とも勉強が不得意というわけではなかったが、一定上の努力をせず成績は常に中の下を定位置としていた。

 闇がその支配を強める中、こうすけは地面に背中をあずけ、完全に仰向けになった。

「お前、卒業して街を出てからもがんばれよな。俺みたいに愛想悪くないし社交的だし、大丈夫だとは思うけどさ。なんていうか、ちゃんと幸せになれ」

「あらら~、たまには嬉しいことも言ってくれるのね。あたしはあんたが心配でたまらないけど、同時にそこが魅力でもあるからずーっとこのままでいてほしいな。なんにも変わんなくったっていいのよ」

「そんなもんかな…」

 声にもならぬほどの言葉をつぶやくと、こうすけはなつみの横顔をチラリと見た。整った横顔を見るのが好きだとなつみに言ったことはない。数秒見つめると満足して目線を戻した。

 すっかり闇に包まれた空にはひときわ明るい星が輝いていた。二人は夜空を見上げてなにを思っていたのだろうか。学校のこと、恋愛のこと、将来のこと、家族のこと。考えるべきことはたくさんあったが、二人は互いの心に空いた穴にはめこむピースを持ち合わせていた。そしてそのピースをはめこんだ瞬間に調和が生まれ二人の世界が完成する。不安も悩みも欲望も寂しさもない。”いまここのこのわたしたち”という完全なる安らぎを感じていた。その一瞬はすぐに日常的な義務や他人への配慮というものにとって変わられ、いつもどこかへ雲散霧消してしまった。

「俺、メシまだだからそろそろ帰るわ。なんか俺までカレー食いたくなってきた」

 こうすけは立ち上がって背中と尻の砂ボコリを適当に払うと、学生カバンを抱え上げた。

「あたし…まだ帰りたくないな」

 こうすけの耳にかすかな声が届いたが、内容までは聞き取れなかった。

「え? なんだって?」

「あたしもまたカレー食べたくなったって言ったのよ! それくらい聞き取れバカっ! 難聴っ!」

「いや、お前がボソボソ言うから聞き取れなかったんだろ! しかしまだ食うのかあ? 太ってまともにソフトできなくなるぞ」

 なつみは諦めたように立ち上がり、こうすけと同じ方角に歩いた。なつみの家はこうすけの家から約100m離れており、海からはこちらのほうが近かった。

「家から海が近いってのはいいよな。やっぱり海って人が生きていく上で不可欠だよ」

「なに意味分かんないこと言ってんのよ。海水飲んで生きてるわけじゃあるまいし。海なんて落ちたら死ぬのよ? あんたほんとにわかってるの?」

「お前、年取るにつれて俺に対する言葉キツくなりつつあるよな…」

 なつみが一瞬だけ例の笑顔を浮かべたが、すぐにもどした。

 

 数分歩くとなつみの家にたどり着いた。決して広くはない中庭には中古のラパンが無造作に停めてある。家の中からは末っ子らしき女の子の声が響き渡っている。

「じゃあまた明日な」

「うん、またね」

 普段のなつみの機敏さが感じられない。こうすけにはなつみが玄関を開けるのを躊躇しているように見えた。というよりもなにかもうひとこと言いたげな様子だった。そのとき、とっさに言葉を発していた。

「なつみ! あの…幼稚園からいままでありがとう。そしてこれからもできたらずっと……なんていうか、一緒にいれたらいいかなって!」

 少し興奮状態のこうすけを見て、なつみは真っ直ぐこうすけの目を見て話した。

「ありがとう。あたしはこうすけのこと心から愛してる。好きとか尊敬とかじゃなく愛してる。こういうこと言うの一生ないかもね! 言えるチャンスがあってよかった。ありがとね」

 そう言い終えると、なつみは笑顔のまま玄関を開けた。

 

 その日の夜、こうすけは自室で似合わないことをやっていた。日記を書いていたのだ。もちろん直接的な表現は避けたが、なつみとのやりとりの中で感じたことを素直に文章にしてみた。すると自分でも驚くほど、書かれた言葉たちがこうすけの感情と融合し、形容しがたい恍惚感を覚えた。

 こうすけはその日以降、高校を卒業し自衛隊に入隊、やがて同僚と結婚し一子をもうけるまで休むことなく毎日書き続けた。

 その手書きのノートのタイトルは『奈之浜』だった。

 

 

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