二十七歳の地図

日記・詩・小説をつらつらと書き綴っています

長文を書こう

 ツイッターなどの短文コミュニケーションに慣れてしまうと、対面での会話における自分の考えや感情の伝達能力が低下するように思う。個人ブログや仲間内での日記というものも、数年前までは身近に存在していた。いまはブログをやってる一般人は少なくなってしまったようだ。

 

 多くの人が長い文章をまとめて書くという経験をしなくなった。それこそ仕事や学校のレポートや資料作りのような提出義務という形で取り組むことがほとんどだろう。

 自分の意見を、誰かを説得するためでもなく、誰かに訴えるわけでもなく、誰かに評価されたいわけでもなく、ただひたすらに書き綴る。そういったことは時間に余裕のある人間が趣味でやることになった。

 

 俺はどちらかと言えば喋りながら考えるタイプだけど、自分の意見を書くという作業をやると、思わぬ思いつきや華麗なロジックにしびれることがある。書いてみなければ思いつかなかった表現や論理構成がある。

 

 ところで、言うまでもないが書き言葉と話し言葉は違う。とくに日本語はその差異が大きい。われわれは決して本に書かれているような日本語で喋らないし、逆に普段の話し言葉で文章は書かない(さいきんは言文一致が流行りっぽいけど)。同じ意見を表明するにしても、書き言葉から話し言葉、またはその逆で伝えるという訓練をすると、意見をより強固に説得的に強化することができる。

 

 俺はmixi時代から長文日記を書いていた。でもよく読むと内容はほとんどなくて、でもなんか重要なことを言ってるような気がするような文章ばかり書いていた。キーボードでひたすら文字を打ち込んでると、ある種の変性意識状態のようになって手が止まらなくなったりする。あの感覚はプログラミングに没頭して寝食を忘れる感覚に似ている。

 

 このまま短文文化が根付き、あらゆる意見は簡略化できシンプルな主張に変換可能、という風潮になると政治的、文学的、社会的にもやっかいなことになるだろう。

 普段ツイッターやLINEでしか文章を書いてない自分に対する訓練として、ブログや小説も続けていけたらと思う。

 

 とにかく質より量が重要。そこは根性論でオッケー。書いて書いて書くことが尽きても、書くことが尽きたと書く。表現欲求が尽きない限り、書き記すという行為に価値は宿る。俺の文章はちゃんと読むと支離滅裂でナンセンスだが、内容など後から脳内で修正すればよい。

 

 

 まずはひたすら書くこと!!

 記録すること!!